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2011年4月

2011年4月26日 (火)

苦労しなくとも当選した人

 所沢市議会議員選挙(定数36/立候補者数46)が終わった。結果は党派別でみると、民主5、自民3、公明6、共産5、みんな2、ネット1、無所属14となった。

 投票率は41.18%で前回より3.86%も低い。身近な市政にもかかわらず、100人の有権者のうち41人しか投票していない。27万4千余有権者の約6割が棄権したことになる。住みよいまちにしてほしい、そのために市政を担う議員さんを選ぶにしては残念な数字といえる。

 所沢市の「選挙の記録」をみると、総選挙の投票率はほとんど過半数を超えている。だが、首長選挙と地方議員選挙の投票率は、都市化がすすむにつれ、毎回低下の傾向になっている。全国的にみても、とくに今回の統一地方選挙の投票率は低い。

 この傾向はなぜだろうか? 投票率の低下傾向は、今後の地域主権の確立、民主主義の発展にも影響してくる。さらに、おまかせ民主主義になりやすい。みなさんは今回の「有権者の沈黙」をどうごらんになるであろうか?

 4月24日の投開票日、所沢市民吹奏楽団の第35回記念演奏会が市民文化センター・ミューズでひらかれた。開場前のアークホール前は長蛇の列。東日本大震災で多くのイベントが中止になったが、ぼくは震災後ひさしぶりにミューズでの演奏会を楽しんだ。

 開演にさきだち、当麻よし子市長が、「きょうは盛りだくさんの曲目が演奏されますが、音楽の力が、被災地にしっかりと届きますよう、みなさまとお祈りしたいと思います」とあいさつ。

 演奏会の元気をもらって、開票の夜を迎える。ぼくは民主党事務所につめた。つぎつぎと開票速報が入ってくるが、党公認7人のうち2人の票がよくない。深夜、「たいへん厳しい状況だ」と相手に伝えるのがとてもつらい(ちなみにわが家も2回落選経験)。

 前回、民主党は6人が当選。今回は世代交代をして、現職3、新人4であった。新人は半年前から職をなげうって活動してきた。どんなに努力して準備をしても、選挙の当落の数字はシビアになる。

 選挙にも下馬評がある。現職の場合は力量がわかりやすい。新人の場合はつかみにくい。新人は「顔と名前」も知られていない。だがたとえば、地域政党の「大阪維新の会」の新人候補者は橋本知事ブームにのって、苦労しなくとも当選した人もいる。政治的な運がいい人たちだ。

 ぼくはこんなとき、500年前の16世紀初頭に書かれた「君主論」(マキアヴェリ著)の一節を思い出す。

 「一私人の身から、ただ運に恵まれただけで君主になった人たちは、すこしも労せずに君位を得ても、国を維持するにあたっては非常に困難に直面する。つまり、その地位に飛ぶようにしてついたものだから、彼は途中ではなにひとつ障害にであわない。だが、ついたとたんに、ありとあらゆる困難に見舞われる」

 激戦を勝ちとった人も、「勝って兜の緒を締めよ」ということわざがある。ぜひ選挙公報で公約したことを実行していただきたいと思う。

「自治体学会緊急フォーラムin所沢」のお知らせ

日時/5月21日(土)10時~16時 場所/市民文化センター・ミューズ/参加費2千円。

シンポジウム:「東日本大震災~自治体はどう立ち向かっていくか」「郊外都市の自立と連携~大都市圏の危機管理を問う」など。くわしくは自治体学会HPをごらんください。

「当麻よし子のHP」では、昨年から「市制60周年・航空発祥100周年」紹介の動画(YouTube)をのせています。まだの方は、ぜひクリックしてください。

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2011年4月18日 (月)

19世紀末の父と母校創立

 統一地方選挙の後半戦が17日はじまった。所沢市議会の定数は36、立候補者は46人。市議会議員選挙の選挙期間は7日間。県議会議員選挙(9日間)より短い。

 1週間で名前や政策を周知することはむつかしい。そのため予定候補者は告示前に政党や後援会などをつうじて「顔と名前の浸透」をはかるのが普通だ。

 民主政治の健全な発展を期することを目的に、公職選挙法がある。国会議員、首長、地方議員を選ぶための細かいルールが規定されている。この法には「してはならない」という条文がたくさんあり、俗に「べからず法」ともいわれている。

 選挙期間中、インターネットで公職の候補者の氏名などを更新すると公職選挙法違反のおそれがある。

 たとえば「文書図画の頒布」「文書図画の掲示」などの規定がある。「何人も、選挙運動の期間中は・・・公職の候補者の氏名若しくはシンボルマーク、政党その他の政治団体の名称・・・を表示する文書図画を頒布し又は掲示することができない」(146条)とある。

 ホームページ、ブログなどのネット活用も文書図画(とが)に該当するとの法解釈になっている。そのため選挙期間中は、何人も更新して候補者名を書くことはできないといわれている。国会では、選挙期間中のインターネット解禁の議論はあるが、いまだ法改正がされていない。

 有権者は候補者にどんなイメージをもっているのだろうか。先日、ぼくは母校の県立所沢高校PTA主催の懇親会に同窓会長として招待された。そのときPTAから「感謝状」をうけた。その文面にぼくの人物評価、イメージが書かれている。

 「おじいさまは共立英和学舎開校の年にうまれたとか、ずっと地元にあって所沢高校に愛情を持ち続けて下さっています。いつでもどこでもバイクでさっそうと現れるフットワークの軽さ、明るい笑顔、衰えない好奇心・・・」とある。まぁ、遊び心の感謝状だ。

 ぼくはひとこと感謝のことばをのべた。「おじいさまではなく、父ですね、あとはみなさんの評価ですね」。ぼくの父は1898年(明治31年)生まれ、所沢高校の前身の英和学舎が創立された年と同じである。したがって今年は母校創立113周年になる。

 高校生をもつPTAのお母さんにとっては、19世紀末生まれの父とは想像できなかったのかもしれない。ちなみにぼくは8人兄弟の7番目。

 時代は日清・日露戦争の間になる。年表をみると、この年は初めて政党内閣が生まれ、選挙運動員の刀剣・銃砲等の携帯禁止とある。NHKスペシャルドラマ「坂の上の雲」(司馬遼太郎原作)の時代になるだろうか。

 東日本大震災のなかの地方選挙の後半戦。前半の県議選とくらべ自粛ムードも消えている。4月24日の投票日に有権者はどんな審判をくだすのだろうか。

 「当麻よし子のHP」では、昨年から「市制60周年・航空発祥100周年」紹介の動画(YouTube)をのせています。まだの方は、ぜひクリックしてください。

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2011年4月12日 (火)

開票日はハラハラドキドキ

 東日本大震災から1ヶ月。きょうも「緊急地震速報」が携帯電話に3回鳴り響いた。昨夕もあの独特の警報音が「強い揺れに備えてください」と教えてくれる。少しぐらいグラグラしても驚かないわが身の慣れが恐ろしい。

 地震、津波、原発事故とこの1ヶ月は、あっというまに過ぎてしまった。メディア報道は、まだまだ「大震災特集」でうめつくされている。復旧・復興への記事も多くなったが、福島第1原発事故がついに原子力事故の国際評価尺度の「レベル7」(深刻な事故)となってしまった。

 レベル7は、1986年4月26日、ウクライナのチェルノブイリ原発事故と同じ国際的な「最悪のレベル」。このときぼくは新潟港にいた。

 この事故を当時のソ連は隠していたが、数日後、公表せざるをえなかった。大気中に強い放射性物質が測定されたからだ。ぼくが知ったのは、極東のハバロフスクにむけての出航の朝であった。いまでも25年前のこのときの「乗客の驚き」をよく覚えている。

 今回の大震災で13,219人が死亡、いまなお14,274人が行方不明になっている(12日現在)。毎日のように犠牲者がふえている。ぼくが所属する自治体学会の「被災自治体・応援自治体むけ」のアドバイス・メールもひんぱんにきている。

 こうしたなか統一地方選挙の前半戦・埼玉県議会議員選挙がおこなわれた。所沢市(西1区・定数4)は5人の候補者。大震災で自粛ムードの選挙戦。駅頭や選挙カーのマイクの音も静かで、自転車で訴える候補者もいた。選挙のさなかとは思えない選挙戦であった。

 結果は、自民党、公明党、民主党、共産党の4人が当選した。投票率は41.26%(前回は43.54%)であった。自粛ムードのなかで、各陣営とも有権者の反応がつかめない。新人の民主党、無所属の候補者にとっては、たいへん戦いづらい選挙であった。

 ぼくは国政・地方選挙でも、投開票の日は一喜一憂する。投票率はどうか、開票状況はどうかと、ハラハラドキドキする一日となる。

 わが家は県議選と市議選をダブルで3回の経験をしている。つれあいの当麻よし子が県議選を終えた1週間後にはぼくの選挙がはじまる。1ヶ月近くの選挙戦となる。

 事前の準備、しかも同時期のダブル選挙となると、さすが運動員にも疲れがでてくる。だが、その困難さを乗り越えてやってきた。

 今回の県議選西1区は、民主党は新人の水村篤弘さん(37歳)。ぼくは10日の開票日の夜、選挙事務所にいた。各地の選挙情報が入ってくる。民主党の候補者の当落がつたわってくる。事務所は一喜一憂の状況だ。

 水村さんは3位当選。事務所は喜びにわきあがった。苦労がむくわれたとお互いに握手をする人、抱き合う人たち、バンザイ三唱が深夜の事務所に響きわたった。

 統一地方選の前半戦は、政権党でありながら、民主党の敗北であった。大震災のなか有権者はなにを求めたのか、橋本知事の「大阪維新の会」の府議会での過半数をどうみるかなど、考えたい材料を多く残したといえる。

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2011年4月 3日 (日)

100年前の飛行機見物

 3.11の東日本大震災から3週間余。買いだめ、ガソリンスタンド渋滞は影をひそめたが、連日、メディアは被災地の悲惨な状況、復興への願い、福島第1原発事故による高濃度の放射性物質などを大きく報道している。

 今回の巨大地震、大津波、原発事故はそれだけ人々に大きな影響をあたえている。大震災後、計画停電もくわわり、多くのイベント、会合が中止になっている。こうしたなか、4月1日告示・10日投票の統一地方選挙の前半戦も自粛ムードになっている。投票率の低下が危惧される。

 100年前の1911年4月1日、日本ではじめての飛行場が所沢の地に開設された。これを記念して、4月2日~3日の「航空発祥100周年記念事業」イベントも中止になった。巨大地震のとき、ぼくは所沢飛行場を撮っていた市内の喜多川写真館のお話を聞いていた。

 余震がつづいた3月13日にも、生涯学習推進センターで、村岡正明先生(航空史家)の「所沢飛行場のあけぼの」の講演があった。資料をもとに100年前の飛行場の雰囲気が伝わるお話であった。

 1911年4月5日早朝、所沢飛行場で、徳川好敏大尉がアンリ・ファルマン機で初飛行、つづいて日野熊蔵大尉もライト機で飛んだ。日本の初飛行は、前年の12月19日、東京・代々木練兵場だが、ここは「航空発始の地」。所沢は飛行場としては「航空発祥の地」となっている。

 100年前の所沢飛行場はどんなふんいきであったのだろうか? 村岡先生は資料をもとに当時のことにふれた。印象深いいくつかのことを紹介したい。

 「ちょうど花見どきでもあった・・・飛行場の周囲には握りめしを腰にわらじばきという姿の見物人がつめかけ、食べ物などの屋台店も出て、まるでお祭りのような騒ぎであった。その群集の中に、母親と思われる八十歳ぐらいのお婆さんを荷車に乗せて見物にきていた孝行者らしいお百姓さんの姿が目についたが、私には今もそれが忘れられない」

 「飛行場の西側には、土地の人によって桟敷がつくられ、一人十銭ずつ取って見物させていたが、これも満員であった」

 「その頃の飛行演習は、早朝の無風状態、いわゆる朝凪の時刻を利用しておこなわれたので、近在の見物人たちも、みんな暗いうちに起きてやってきたものである」(以上「日本航空事始」徳川好敏著)。その日、飛ぶか飛ばないかは風しだいの時代だ。

 「グラーデ(単葉)は推進器が前についているから、回転する勢いで風が出来て、その風が顔を打つので切られるやうに痛い。おまけに塵埃や油が飛んで、顔にぶっつかる。これには実に閉口する」(「天下の痛快時-飛行機に乗って天空を翔ける」日野熊蔵)

 当時の滑走路は、東西50m・長さ400m。初めて飛行場から人が大空に舞い上がった。早朝の無風状態のなかで、飛び上がった飛行機をみてビックリしたに違いない。

 飛行機の発達は日進月歩の世界。1923年(大正12年)9月の関東大震災には、「救難活動に所沢飛行場より飛行機を出動させ、食料、公私文書郵便物を輸送飛行している。また、総理大臣告諭を東京市上空より散布した」という。

 今回の大震災で、多くのまちが壊滅、道路は寸断され、がれきの山となった被災地に、物資輸送・被災者救援に輸送機やヘリコプターが大活躍している。100年前とは比較にならない航空機の歴史といえる。

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