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2011年3月

2011年3月30日 (水)

変わった飛行場への駅名

 「わが家を震災にあわれた親子に提供したい」「うちの土地に仮設住宅を建ててもいいですよ」と身近な市民の方から聞いた。なんとか被災者を手助けしたいという善意の声がおきている。

 きょうの朝日新聞には、東日本大震災で、死亡11,168人、安否不明18,382人、避難175,396人(29日現在)と報道されている。毎日のように死亡者がふえている。3月11日に起きた巨大地震(M9.0)は、大切な人のいのちや家、財産を一瞬のうちに破壊した。

 つれあいの当麻よし子市長は、大震災後、いつもより早く自宅をでている。物資調達、避難者受け入れ、緊急援助隊など、連日「災害支援対策本部会議」をひらいている。くわしくは市役所HPをごらんください。

 東京電力の計画停電が発表されてからわが家の地域の第1-Cグループの停電はまだ起きていないが、福島第1原発事故の放射能もれも、いまだ安心できない状況にある。

 未曾有の大震災で、4月2日の所沢航空発祥100周年の記念式典・講演会、市民文化フェアなどの大きな行事が中止された。

 とくに航空発祥100周年行事の中止はとても残念だ。日本で最初の飛行場が所沢にできて今年4月は100周年になる。だが、祝い事も大震災ではやむをえない。いろいろな行事が中止になっている。

 そのなかで、「所沢飛行場100周年特別展」(4月3日まで)が西新井町の小さな「ギャラリーブロッサム」(能面美術館前)でひらかれている。「わが家に残されている資料を展示します」と鈴木源太郎さんのご案内だ。

 陸軍気球研究所用地買収関係書類上申書(松井村総代)、試験場入場を許可すべき書、仏国飛行団歓迎会案内状など貴重な資料が展示されている。100年余前、飛行場の土地が買収されるさまは以前のブログ(2009.10.14)で書いたことがある。

 特別展には、飛行場にいくために駅がつくられた当時のビラが展示されている。現在、所沢駅は西武池袋線と西武新宿線が交差している。ぼくが知らなかった駅名「松井村」。昭和13年2月19日開業。いまの所沢駅と秋津駅のあいだにできた。池袋まで片道45銭。

 当時、武蔵野電車の松井村駅は、同年3月1日より所沢飛行場駅に、昭和15年12月1日より東所沢駅に駅名を改正している。あわただしい駅名変更だ。その背景はなんだったのかはわからない。いまはこの駅があったところはあとかたもない。

 これまた昭和13年6月3日開業の所沢飛行場前駅は、昭和15年12月1日、所沢御幸町駅に改名している。現在の所沢駅と航空公園駅の中間。これもあとかたがない。

 特別展は、ぼくにとってはじめてみる資料ばかりであった。100年の歴史にはさまざまなできごとがある。大津波で東北沿岸の水没地域はとてつもなく広い。復旧・復興にむけて、みんなで「がんばれ東北」「がんばれ日本」でいきたい。

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2011年3月19日 (土)

避難してきたいわき市民

 玄関先にいると「議員さんの家ですか?」と見知らぬ中年男性が声をかけてきた。「ぼくは前議員でしたが・・・」「私は福島県いわき市から一昨日やってきました。大学時代の同級生の家にいまお世話になっています」

 お話を聞くと、福島第一原発の30キロ圏内の人だ。携帯に写された写真は、家はつぶされ、がれき状態になっている。被災者を受け入れた人はご近所の元小学校の先生。「当麻よし子後援会」の看板をみて議員宅と思って声をかけたという。

 「所沢市民のみなさんに大変お世話になり本当に感謝しています」と、涙ながら巨大地震の状況を語った。

  認知症の母はすぐ市内の介護施設に入ることができた、親切に道を案内していただいたなど、テレビや新聞で連日報道されている避難者が、まさかわが家にくるとは考えもしなかった。車で、米をつんで義弟家族など8人で所沢にやってきたという。

 きょうも当麻よし子市長は公務ででかけている。わが家が市長宅とわかり、「くれぐれも市長さんによろしくお伝えください。所沢市民にあたたかくしていただき感謝しています」と手をあわせてまた涙ぐんだ。

 東日本大震災から1週間余、警察庁集計によると死者は6911人となり、1995年の阪神大震災を超えている。行方不明者はさらに多い。避難者も何十万人もでている。いったいどのくらいの人たちが巨大地震の犠牲になるかわからない。避難先の一人ひとりのことを思うと心が痛む。

 さくじつも携帯メールには、所沢市役所危機管理課から計画停電のお知らせが頻繁にかかってきた。余震もまだまだある。福島第一原発3号機の放水・冷却作戦などが刻々報道され不安な気持ちも人々におしよせてくる。

 連日、ご近所のガソリンスタンドには長い長い車の列がつづいている。ぼくのできること。節電にこころがけ、寒くともストーブ(灯油)はつけない、買いだめはしない、大震災募金に協力するなど、できるところからはじめている。

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2011年3月12日 (土)

巨大地震その時あなたは?

 「BBCニュースをみて、日本の地震報道にびっくりしました。多くの人命や家が失われているという、恐ろしい光景をテレビで放映していました。あなた方は大丈夫ですか、とても心配です」と、今朝イギリスの友人からメールが届いた。

 その時、ぼくは所沢市生涯学習推進センター3階の会議室にいた。午後2時から始まった「航空写真家 喜多川秀雄伝」のお話を聞く会に参加していた。日本で最初の飛行場の飛行機を撮影していた「喜多川写真館」。ご子息の喜多川方暢さんがトークしていた時だ。

 午後2時50分ごろ、身体がぐらぐら揺れ始めた。地震だ。最初、すぐおさまるだろうと思っていたが、だんだん揺れが激しくなってきた。それにしても長い時間だ。2分以上つづいたかもしれない。

 かつて経験もしたことがない巨大地震。ぐらぐら揺れが激しい。参加者は「キャー!」という声もでない。恐ろしい体験になった。会は中止、全員外にでた。「こんな大きな地震は初めてだ」と心配そうな顔。

 3月11日午後、三陸沖で発生した地震は、マグニチュード8.8。気象庁によると観測史上国内最大という。近くの市役所に立ち寄った。1階市民課の待合室にある大型テレビに多くの市民がくぎづけになっている。

 巨大津波が濁流となって家や畑におしよせ、車も流されている。恐ろしい状況になっている。市民ホールにある議会中継のテレビも中断している。地震で一般質問は中止になり、ただちに当麻よし子市長らは対応策におわれているという。

 夕方、ぼくは所沢高校定時制の卒業式に出席予定。所沢高校同窓会長としてご案内をいただいていた。地震で電車は運休中。バイクで母校にでかけた。午後6時からの式典は地震の関係で7時からとなった。

 校長先生のお話では、電車の運休で、帰宅できない全日制の生徒は、同窓会館「希望の鐘」で待機しているという。

 4年間学んだ定時制の22人の生徒たち。式典に遅れたり出席できない人もいた。式典のさなかにも余震はあったが、卒業式はぶじ終了した。つれあいから「あなたは帰宅したのですか」と心配のメールが入ってきた。当麻市長が帰宅したのは深夜であった。

 ぼくの携帯メールには「緊急地震速報」が何回も入っている。多数の人命が失われ、行方不明者も数えきれないほど多い。道路は寸断され、壊された家、濁流にのまれた車、首都圏では交通マヒなど地震の被害はあまりにも大きい。

 所沢市役所危機管理課によると、帰宅困難者は159人いて、市民体育館、市役所、中央公民館、小手指公民館分館などを利用した。幸い市内の人的・物的被害はなかったという。

 それにしても巨大地震の被害はあまりにも大きい。福島原発の放射能もれの心配もでてきている。被害にあわれた方にお見舞いとご無事を祈りたい。大地震の時、あなたはどんな体験をしたのだろうか?

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2011年3月 7日 (月)

ミヤコタナゴがすめる川に

 体長3~4cmのミヤコタナゴ。かつては柳瀬川の上流に生息していた。残念ながら、いまは人工飼育の水槽でしかみられない。ミヤコタナゴは国の天然記念物に指定されている。

 所沢には大きな川はないが、ぼくの住む山口には柳瀬川が流れている。上流の上山口地区の住民が「柳瀬川の最上流をきれいにする会」をつくり、定期的に川のそうじをしている。また「上山口ミヤコタナゴ保存会」もある。

 この「きれいにする会」のメンバーが多数参加して、3月6日、所沢市立埋蔵物文化財調査センターで、「川の再生研修会」がひらかれた。テーマは「ミヤコタナゴの保全について」「多自然川づくりについて」であった。

 講師は、リバーフロント整備センターのお二人の研究員。プロジェクターをつかって、ミヤコタナゴの生息にはどんな環境が必要か、うるおいのある川とはなにかなど、具体的な事例をもとに専門的な説明がされた。

 視覚にうったえるプロジェクターの説明はわかりやすいが、会場を暗くしているのでメモがとりづらい。せめて説明のポイント部分は印刷されているとありがたい。画像は瞬時にしてわかりやすいが、ぼくは古い人間なので頭に残らない。新聞とテレビの差ともいえよう。

 ぼくが子どもの頃、柳瀬川に生息していたミヤコタナゴ。会場の埋蔵物文化財センターの水槽ではたくさんのミヤコタナゴを人工増殖している。廊下から1,2年前に産まれたミヤコタナゴがみえる。

 昨年10月、このセンターで、約4400匹のうち1347匹が大量死するできごとがあった。理由は、固体の病気ではなく、「水質悪化」と推定している。

 ミヤコタナゴは、かつて関東地方の水田に流れる用水路、湧き水などに多くすんでいた。だが、宅地化がすすみ、川が汚れるなどの環境悪化で、いまは栃木県、千葉県、埼玉県にしか生息していないという。

 ミヤコタナゴの産卵に欠かせない二枚貝、宿主となる魚類がいないと生息できない。ひとつでも欠けるとミヤコタナゴは絶滅してしまう。講師は、「まずは二枚貝、宿主魚類がすめる環境がポイントです」と説明された。

 ちなみにミヤコタナゴは1974年(昭和49年)に国の天然記念物に指定されている。絶滅のおそれのある野生動植物の種の保存に関する法律で捕獲、殺傷等が禁止されている。

 かつて所沢にも生息していたミヤコタナゴ。都市化の波で環境が激変し、自然にいたミヤコタナゴが消えてしまった。ミヤコタナゴやホタルがとびかう柳瀬川に復活させようと地域の人たちは汗を流している。

 つれあいの当麻よし子市長も県議時代から「柳瀬川の最上流をきれいにする会」に参加している。いま3月定例会(2月22日~3月25日)のさなかだが、市長となると土曜も日曜も関係なく朝から行事がめじろおし。

 この日の夕方、ぼくも出席した新井隆一・元市議会議長の叙勲祝賀会に一緒になった。なつかしい市議会時代の仲間もたくさんみかけた。時節がら4月の統一地方選挙についての情報交換も多かった。

「当麻よし子のHP」では、昨年から「市制60周年・航空発祥100周年」紹介の動画(YouTube)をのせています。まだの方は、ぜひクリックしてください。また「ところレポート」を更新しました。

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