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2011年2月

2011年2月28日 (月)

フォール大佐も利用の料亭

 広大な所沢航空記念公園内の日本庭園・茶室の南側にフランス人の胸像がある。八の字にのばした立派なヒゲの人は、フランス人のジャック・フォール大佐の像だ。

 1919年(大正8年)1月、フランスから航空教育軍事使節団が日本にやってきた。使節団は約60人、その団長がフォール大佐。当時、最高の航空技術をもっていた使節団は、フランスのマルセイユ港を出航して来日した。

 アメリカのライト兄弟が動力のついた飛行に成功したのは1903年12月。日本で最初の飛行場が所沢に開設されたのが1911年(明治44年)4月1日。

 4月5日、アンリ・ファルマン機が初めて所沢飛行場から飛び立った。初の飛行は、高度10m、飛行距離800m、飛行時間は1分20秒であった。所沢市は航空発祥100周年を記念して、いまアンリ・ファルマン機の2分の1復元模型を市役所1階市民ホールに展示している。

 アンリ・ファルマン1910年型機はフランス製で、最大速度は65km/h。わずか800mの距離であっても、鳥のように複葉機が大空に舞うことができた。驚いたことに、1ヵ月後には所沢飛行場で、国産機(奈良原式2号)が高度4m、距離60mを初飛行している。

 飛行機の発達は日進月歩。1910年代の飛行機は試行錯誤の時代といえる。この時代にフランスから使節団がやってきた。フォール大佐一行は所沢に長期間滞在し、飛行技術などの指導にあたった。使節団の目的は航空技術の指導だけではなく、フランス軍用機の売り込みもあったという。

 この使節団の食事はどうしていたのだろうか。所沢には1882年(明治15年)に創業した料亭・美好軒(現在名は割烹・美好)がある。創業者が「これからは洋食の時代だ」とひらいた。三代目はフランスに渡り、帰国後、本格的な洋食をはじめている。

 100年前に所沢飛行場ができて、アンリ・ファルマン機で初飛行した徳川好敏大尉をはじめ、多くの著名人が来店されたという。美好軒にはビリヤードもあった。当時としては、モダンでしゃれたお店であったにちがいない。

 所沢にやってきたフォール大佐一行も料亭・美好軒を利用した。四代目の女将によると、先代から聞いたところ、彼らは「サーロインステーキ、ビーフシチュー、パイ料理、魚のクリーム煮など」を堪能されたという。

 ランチタイムに「フォール・カツレツセット」があると聞いて、先日、友人たちと「美好」に入った。チラシには「フォール大佐が一番好まれた家庭料理」とある。肉がやわらく、とてもおいしい。日本庭園をながめての食事。梅の花がパラパラおちている。

 昼間のお客さんは少ないが、夜が戦場だという女将。92年前、フランス将校ご用達のレストランは、いくたの変遷をへて、新たな挑戦をしながらお店をつづけている。

「当麻よし子のHP」では、昨年から「市制60周年・航空発祥100周年」紹介の動画(YouTube)をのせています。まだの方は、ぜひクリックしてください。また「ところレポート」を更新しました。 

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2011年2月12日 (土)

ダニエルさんの異文化体験

 いま、人と人との関係が希薄になっている。ご近所づきあいもなく、孤立する人たちがふえている。最近、無縁社会ということばがテレビや新聞でいわれている。

 「地域でのふれあいの輪をひろげよう」と、2月10日、市民文化センター・ミューズで、所沢市自治連合会主催の講演会がひらかれた。講師は、タレントで山形弁研究家のダニエル・カールさん。

 日本にきて33年になるダニエルさん。テーマは「人にやさしい人づくり」。ユーモアまじえて異文化体験をたっぷりお話した。日本人にはあたりまえだが、外国人は「妙なところ」にびっくりする。会場は笑いにつつまれたが、ぼくの印象に残ったいくつかを紹介しよう。

 日本人は遠まわしないいかたをする。ダニエルさんが英語教師として山形に赴任し、会合で「あの人は先生ですか?」と隣りの上司にきいた。

 上司は「あの人は先生ではねぇかと思うんだけど・・・」。ダニエルさん、文法を考えて理解しようとするが、肯定なのか否定なのかわからない。答えは「わからねぇ」でいいんだけど、婉曲的な表現にとまどったという。

 彼いわく。どっちがいいか悪いかではないが、外国人は自分の意見をはっきりいうのがあたりまえ。「味はどうですか?」「まぁ」。イエスでもノーでもない。外国人にはどちらだかわからない。このように日本人はストレートないいかたを好まない。

 彼はホワイトボードに大きく「謙遜」と書いた。日本にきて数年後のこと。上司の先生宅に招待された。「おばんです!」とあいさつして、玄関先ではじめて奥さんにあった。そのとき上司は「こちらはうちの愚妻です」と紹介された。

 ダニエルさん、「ぐさい」の意味がわからない。食事のとき、奥さんの名前だと思って「ぐさいさん」と呼んだ。みなさんは大笑い。また「ぐさいさん」というと、また笑われた。

 翌日、辞書をひいてみた。「おろかな妻」とある。「先生、奥さんにひどいこという!」。だが、あのとき奥さんはニコニコしていた。

 「これは愚妻です」「うちの愚息です」と、なぜ家族のことを悪くいうのか、何年も理解できなかった。やがてその意味は本気で家族をけなしていっていないとわかってきた。これが来たばかりの外国人にはわからない。

 ダニエルさんは「愚妻」を例にだしたが、ぼくの場合、「愚妻」という表現はつかったことはない。「女房」とか「つれあい」「家内」ということばがせいぜいだ。

 家族愛があるのに、日本では身近な人ほど正反対のことばをつかっている。なんと奥が深いもんだ。これも30年余日本に住んでわかってきた。アメリカでは平気で自分の奥さんを「美人だ」という。

 国際化時代、このような文化のちがいがあることを理解して、これからは「自分のいいたいことをもっとはっきりいう」ことも必要ではないか、とのお話であった。

 第二部は「地域の底力支援事業」に応募した7団体の表彰と発表。そのひとつ、所沢駅西口側にある東住吉町内会「花の会」の報告。

 道路沿い200mにみんなできれいな花壇をつくり、「あいさつ」「ありがとう」を交わせるまでになった実践例。汗をかくことによって、新旧住民や近くの企業とのコミュニケーションがうまくいっている、と実感させる活動だ。

 34万余の所沢市には253自治会・町内会がある。自治会の加入率は66%という。地域コミュニティが希薄になっているなか、いま自治連合会は加入促進の活動をすすめている。

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2011年2月 6日 (日)

春の訪れをつげる稲荷様

 赤い鳥居とキツネといえば、お稲荷さん。わが家の近くにも小さな櫻渕稲荷神社がある。ご近所の人たちが集まって、2月6日、小さな祭礼がおこなわれた。甘酒、めざし、赤飯、みかんなどがふるまわれ、身近な話などに花がさいた。

 つれあいの当麻よし子市長は、日曜日もスケジュールが一杯だ。朝一番に夫婦で稲荷様におまいり、その後、当麻市長は武道祭、新所沢団地自治会50周年記念総会、ボニージャックス&JULEPSコンサート、各種団体の新春のつどいにでかけた。

 柳瀬川ぞいにある小さな稲荷様。鳥居の近くに「正一位稲荷大明神」の旗、杉の木の脇には「子授 安産 願杉」の立て札がある。老木の柿の木には古い太鼓。寒さ対策のドラム缶にはマキが燃えている。素朴な地域の稲荷様の祭礼だ。

 この稲荷様周辺は以前は畑であった。しかし、いまは都市化の波で、稲荷神社のまわりは住宅が密集している。

 ぼくが子どもの頃、2月の初午(はつうま)のお祭りは、とても楽しみであった。やぐらが建てられ、早朝から太鼓がひびき、子どもたちにお菓子がくばられた。少子高齢化で、いまはそのにぎやかさが消えてしまった。

 稲荷神社は全国に3万以上あるという。屋敷神など、神社として登録されていないものをふくめるとその倍はあるという。

 ご近所の稲荷様は、由来によると、明治25年(1892年)に稲荷講がはじまり村の有志によって太鼓が奉納されている。その5年後、京都・伏見稲荷大社に参拝して、「正一位稲荷大明神」の位を授与され、「社」が完成した。

 全国のお稲荷さんは、京都・伏見稲荷大社を総本宮としている。「稲」の字がある稲荷神社に参拝すると、五穀豊穣、家内安全、商売繁盛、子孫繁栄などさまざまなご利益があるといわれている。ほんとうに日本にはたくさんの神様がいる。

 京都・伏見稲荷大社の鎮座は奈良時代の和銅4年(711年)というから今年で1300年になる。歴史と伝統のある大社だ。

 ご近所の稲荷様の「額」や「ノボリ」に「正一位稲荷大明神」の文字が書かれている。あの位はなにを意味するのだろうか。「お稲荷さんの世界」(府中市郷土の森博物館)によると、神様にも官位があったという。

 「正一位とは、朝廷が授けたもっとも高い官位である。奈良時代より、全国の神社に対しても貴族と同じように位を授けることが行なわれた。これを神階(しんかい)という」。伏見稲荷は徐々に位をあげて、天慶5年(942年)に最高位の正一位になった」と。人だけでなく神社にも位をつけるのは神社の権威のためだったのだろうか?

 もうひとつ、お稲荷さんとキツネの関連はどうか。「昔どんな願いも叶える力をもつ夫婦の狐が伏見稲荷に詣で、お稲荷さんの使いになったという。そのため狐像が対になって配置されている場合が多い」と。ご近所の稲荷様のキツネも対になっている。

 身近なところにあるお稲荷さん。最高位の官位をもちキツネが対に並んでいる。春の訪れをつげるお稲荷さん。みなさんの地域ではどんなお稲荷さんの行事があるのだろうか?

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2011年2月 1日 (火)

日本に逃れてきた難民は?

 エジプトで反政府運動がひろがっている。日本の1年たらずで交代する政権とちがい、ムバラク大統領は30年近く政権の座についている。お隣のリビアのカダフィ大佐は在位40年を超えている。長期政権による矛盾は想像以上に深いにちがいない。

 30年、40年の長期政権を維持するためには、敵対的な政治勢力を弾圧したり、一方的な情報操作、言論・出版の自由を制限したりが一般的だ。カイロやアレキサンドリアを訪ねたことがあるが、道路脇には巨大な「ムバラク大統領」の大きなポスターが飾られていた。

 世界には、いまも紛争や迫害により国外に追われた人々は数千万人もいる。その昔、ベトナム戦争終結前後に日本に逃れてきたボート・ピープル(インドシナ難民)を思いだす方もいるだろう。

 迫害をおそれて国外に逃れる難民とはなんだろうか。「日本における難民の現状」はどうなっているのだろうかと、1月29日、TIF(所沢インターナショナルファミリー)主催の学習会が「ふらっと」でひらかれた。講師は、認定NPO法人「難民支援協会」の篠山顕子さん。

 世界の難民問題で頭にうかぶのは、アフガニスタン、スーダン、ミャンマーなどの難民だ。俗にいう「ネットカフェ難民」「帰宅難民」とは性格がちがう。それでは「難民とはなんだろうか」。日本も加入している難民条約がある。

 条約でいう難民とは、「人種、宗教、国籍もしくは特定の社会的集団の構成員、または政治的意見を理由に迫害を受けるおそれがあるという十分に理由のある恐怖を有すること。国籍国の外にいる者。その国籍国の保護を受けることができない、恐怖を有するためにその国籍国の保護を望まない者」とある。

 篠山さんは、難民と移民のちがいを説明した。移民は渡航証明書をもっているし、自由に帰国できる。難民は渡航証明書を用意することはむつかしいし、帰国もできない。これだけでも難民の苦労が想像できる。

 それでは日本にどのくらいの難民がいるのだろうか。2009年に日本で難民認定申請をした人は1388人、そのうち難民として認定された人は30人。認定されず人道的配慮で在留特別許可をうけた人は501人となっている。

 申請者を国籍別にみると、ミャンマー、スリランカ、トルコ、パキスタンで7割以上をしめている。それにしても難民申請しても認定されない人があまりにも多い。

 篠山さんのお話では、イギリスの空港では「難民申請の窓口がある」という。難民受け入れの国際比較をしてもアメリカ、カナダ、イギリス、ドイツ、フランスとくらべて、日本はパーセンテージに表わせないほど難民受け入れが少ない。

 「母国に帰されると迫害のおそれのある」難民だが、日本で難民申請しても、実際の認定者は2%という数字は国際的にみてもどうかと思う。難民であるかは慎重な審査は必要であろう。だが、篠山さんのお話では、不認定の理由が少ない、国によってばらつき、審査期間(平均2年)が長いという。

 埼玉県川口市や蕨市には、トルコ国籍のクルド人が数百人居住している。クルド人が難民申請しても認定はゼロ。日本とトルコの友好関係で「難民認定」はむつかしいといわれている。

 現在、難民審査は入国管理局(難民審査官)がおこなっているが、難民支援協会では「難民審査機関を独立させてほしい」と政策提言や難民の生活支援をしている。難民申請中の難民のくらしは経済的にも法律上も不安定な状況におかれている。

 日本は、国際機関にたいして多額の難民の財政支援をしているが、国際的には難民受け入れの申請者数、認定数は極めて少ない。「難民にあたたかい国」にするにはどうあるべきか、いろいろと考えさせられた学習会であった。

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